「オルハ? うーん,知らないねぇ」
「さぁ。そんな子,居たかしら?」
「んーオルハ・スフェルト? しらねぇなぁ……」
誰に聞いても全く要領を得ない答え。まさかここまで一人の女性を探すのが難しいとは思わなかった。
少し計算すれば簡単なことだ。現在イシスに居る全住民の数はおよそ3万人。うち兵士数は大体3000と言ったところだろう。兵士数は少ないが,これにプラスして旅人は勿論,民も戦える者が居る。それらを含めると大体今回の戦闘で戦える者は8000と言ったところか。勿論,戦わない僧侶等,回復専門兵を考えれば更にこの計算は増える。魔法国家の底力というモノだ。
さておき,それだけの人数の中から一人の女性を探す。3万を男女で割っても1万5000。彼女がかつての家に居るなら,その家に行けば会えるのだろうが,今は殆どがこのイシス城に避難している。広さがあまりなく,窮屈。一人一人が寝ると足の踏み場は無くなるだろう,と言った感じだ。かなりの広さの避難所があるのだが,それでも入りきらず,溢れた者は仕方なしにイシス城内の諸所に散っている。廊下は勿論,トイレの近くという嫌な場所に落ち着いた者も居た。
「そういえば,ここに居るという確証もねぇんだよなぁ……」
今までまるで考えなかったが,ここまで彼女がここに居るという前提の下,突っ走ってきた。しかしながらそんな確証どこにも無いのが現状だ。あるのは“まぁ多分ここに居るだろう”“というか他の場所に行く理由がない”“連絡も無い”というあくまで不確定なカンだけだ。とはいえ彼の直感は間違いなくここに居るはずだと言ってはいるのだが……
「ちょっと滅入ってくるな,これは」
外に戦のための準備をしに行っている者は抜いてもそれでも相当の数の人間が今,イシス城に居る。これは困ったことだ。
もう少し計算してみよう。彼女の知り合い数をカウントするのだ。
名前は知っているのだから確率は (オルハを知っている人数)/イシス全人口)×100で百分率表記が出来る。「そう考えたら……って良く考えろ俺。なんか確率計算したら余計に絶望してきた……」
仮に彼女に知り合いが29人居たとしよう。オルハ自身を含めて全30人。この数を上の式に代入すると答えは0.1%。千人に一人の割合だ。
「お,おおお……これはしんどいな,おい」
余計なことを考えるんじゃなかった,と酷く後悔するクルス。しかし後の祭りだ。
「やっぱ地道に行くか」
既に夜に入っている。だが,もう少し。もう少しだけ探しておきたい。彼の逸る気持ちがそうさせる。幸い,日が落ちてすぐに寝る,なんてことは無いので後数時間は誰もが起きているだろう。
「しかしどうしたものか」
彼は考えることを半分捨て,ローラー作戦的に手当たり次第に聞いていく。せめて今の彼女の様子だけでも,ということで髪の色と瞳の色を付け足しながら人に聞いていくが,誰も知らない。案外人は人を見てないものだな,とクルスは思いつつ,諦めずに聞く行動を諦めなかった。
32 到着する彼女と付き人の問題
しかし,彼は探すがやはり知っている者は居ない。これだけ探しても見当たらない。勿論相当数の人間が居るのだからそれは難しいのかもしれないが,しかしここまで知っている者が居ないのはおかしくないだろうか?
「はぁ……今日はもう寝るか?」
既に住民達は体を寄せ合って眠りについている者が多い。夜は大分深まり,冷たい風が彼の体を撫でる。彼は肩を竦めて,外に居た。
イシス城は取り立てて高地にあるわけではない。城下町とほぼ同じ高さにあるため,一階からでは塀が邪魔で城下町の様子が見えない。しかしながら,ここは四階。見晴らしは良いと言えるし,二階以上の建物はこの城以外存在しないので城下町の全てがここから見えた。
レンガの壁にもたれかかる(ちなみにイシス城だけは全五階立ての建物だけにレンガで出来ている。他の建物は土と粘土)そしてタバコを取り出して吸った。
「ふぅ〜やっぱ外で吸うタバコはいけるな」
空を眺めてそう漏らすクルス。自分の目線にはタバコの煙で一部分が若干白い,黒い星空だ。この世界の人間は満面の星空という言葉を知らない。なぜならどこから見てもこのように,天球一面の星空だからだ。だから綺麗だ,という感想は発生しないし,ロマンチックだとも思わない。ロマンチックだと言っても彼は男なので関係ないが。
「全く。俺がイシスに来たってことをあいつが知ってくれればあいつからも探してくれるんだろうけどな」
明らかにおかしい発言ということは判っているのだが,そう言いたくもなる。既に100人程度聞きまわっているのだ。しかし彼女を知っている人間には出会わない。なぜだろうか?
もしかしたらここには居ないのか?
ならばどこに居るのだろうか?
いや,自分の直感を信じてここに居るのだ。見つかるまで探そう。
せめて彼女の手がかりさえ見つけることが出来れば――
「こんなことになるんだったらワイルスに聞いとけば良かったぜ」
聞いたところで教えてくれるとは思わなかったし,またあの用心棒(ヤクザっぽかったが)に囲まれてしまうだろう。
「ったく,アイツは変わらんな」
ワイルスのことを思い出して苦笑する。苦笑出来るだけ,彼の心の傷は既に癒えている。
彼に何年もいじめられ続けた酷い記憶。そこから助け出してくれたオルハの存在。
初めてワイルスに反抗し,殴ったときのあの感触は未だに手に残っている。その後彼の仲間に仕返しを受けたがそれでいじめは完全ストップ。変わりに完全無視に変わった。反抗できたのはこれは奇跡だろう。殆どのいじめられる側というのは反撃をしない。それはまだ成熟していない心が,理由不明の恐怖感に捕らわれているからだ。それ故に,周りの人間が必要となる。親,教師,色々あるが,往々にしてこういう場合大人は出てこない。
ともあれ,彼は懐かしい気分になった。先ほどオルハとの会話を思い出したが,今度はいじめられていた時の記憶だ。
苦い,と言えばそうだ。しかし,成熟した彼はそれらを全て客観的に見ている。
「あーあー,そういえば牛乳頭からかけられたことあったな」
ありゃあ酷かった,と小さく頭を頷ける。
「っは,くだらねぇ」
鼻で笑い飛ばして彼は目線を下げる。城下町を見た。外灯など一切無い。月明かりだけが頼りだ。幸い今日はフルムーンであるためにかなり明るかった。
「そういや,あいつの家,一度行っとけば良かったな。何か判るかもしれん」
それもそうだ。少なくとも家の感覚でまだそこに人が住んでいるかどうかが判断できる。イシスに住んでいるものは一度決めた家はそう理由が無い限り,その場に居続ける。引越しという概念が無いのだ。イシス外に行くならともかく内部の引越しなんてありえない。
だからまだそこに居る可能性は高い。10年たった今でもだ。
「明日にでも行くか」
なんにせよ,既に遅い。人も殆ど眠っている。自身も昨日の移動時の徹夜で随分疲労を訴えているし,今日は休もう,そう考えたクルス。そのときだった。
「ん?」
気配がしたのはその時だ。丁度彼は城の外,つまりバルコニーのような場所の端に居たのだが,そのバルコニーの入り口付近から人の気配がする。その人が,バルコニーへとやってきた。
「はぁ〜夜回りとかやっぱきついわねぇ〜」
彼は咥えたタバコを思わず落とす。
それは始めてのことだった。
目を見開く。これでもかというくらいに。
距離は大体5m程度。
月明かりがあるために,間違えるはずがない。
そうだ。
大体クルスはそれなりに視力も良い。
そうじゃない。
彼女の雰囲気だ。
捜し求めていた雰囲気。
それが,少し近づけば手に入れることが出来る距離。
「ん? 誰か居るの?」
思わず彼は目を泳がせる。焦点をどこに合わせれば良いのか判らなくなる。瞳が高速に辺りを分析しているように見えて実は何もしていない,極めて無駄なことをした。
「こんばんは,こんな時間まで起きているなんて珍しいね」
彼女が近づいてくる。
次第に余計に彼女だと認識する。
青い長い髪。
薄い紫の瞳。
特徴は10年前と一緒だ。
全く違わない。
あるとすれば。
そう――
彼の目が危うく奪われる程に綺麗になったことだ。
「あ,ああ」
これでは明らかに不審人物である。彼は彼女を見ようとする。だが,見れない。
「え,私の顔,変かい?」
「い,いやそんなことはないぞ」
「? 変な人ねぇ……」
どう見ても,彼女は気が付いていない。もしかしたら彼女は良く似た別人か?
いいやそんなわけが無い。彼女は間違いなくオルハだ。似ているだけではない。姿格好は違うが,雰囲気がそのままである。
「君の名は?」
「へ? 私? オルハよ。オルハ・スフェルト」
ほら見やがれ。彼女本人じゃねぇか,と彼は心の中で確信を得る。
「貴方は?」
当然聞き返すだろう,むしろ自分から名乗らない自分の腰抜け具合が笑えた。
「俺か? そうだな……」
彼は思案する。
「君と以前面識がある者だな」
なんて楽しい時間だろうか。
「え,そうなの?」
彼女は判っていないようだ。流石に10年の歳月は彼女の中から自分を消し去ってしまったのだろうか。だとすれば寂しい。しかしながら,己の名を言えば,全てを思い出すに違いない。
「そうだ」
「うーん,そうは見えないんだけど」
彼女は考えるそぶりを見せる。しかし,出てこない。
OK,ならば言えば良い。名乗れば良いのだ。
聞いて驚くなよ,とクルスは心の中で笑った。
「ははっ,俺の名はな……」「ごめんなさい。私,20歳未満の記憶が無いのよね」
瞬間,彼の表情が凍りついた。
「ここがイシスですか」
既に夜もかなり深まり,気温が下がり,非常に体が冷える時間帯。しかし満月の御蔭で大砂漠は非常に見通しが良い。そんな中,スバルはついにイシスに到着する。
彼女を乗っけてきたじごくのハサミは己の手を動かしてちょっきんちょっきんしている。その様子が“その通りだぜ”と言っているように見えた。彼女がアッサラームを出たのは日を超えた辺り。しかし彼女は当日中にイシスに到着した。これはかなりじごくのハサミが頑張ったということだ。モンスターもやはり男性より女性を乗せていた方がやる気が出るらしい。
「ありがとうございます。モンスターなのに人間に尽くすなんて素晴らしいですね」
イシスのゲートを訪ねる前にスバルがじごくのハサミの皮膚,と言っても甲殻類なので殻と言った方が良いか。その殻を彼女の綺麗な手で撫でた。
「ギッギギギギ〜」
非常に嬉しそうにモンスターは鳴き声を出す。ちなみにここに来るまでに出てきたモンスターはその,ことごとくが彼によって倒されて,スバルは何もしていなかったりする。
「さて。と」
彼女はゲートに近寄る。もう夜中であるが,魔王の宣戦布告を受けたのだ,昼夜を問わず見張りが居るに違いない。随分と装飾が無い無骨なゲートであるが,だが,確かに防御力はありそうだ。また,そこに近づくと何か奇妙な感覚に捕らわれた。彼女は知らないことだが,それこそがイシスを守っている魔法障壁である。人体にはなんら問題は無い。魔法だけを完全に跳ね返す,イシス全土を覆っている魔法障壁だ。
「すいません!」
彼女は普段なら出さないような大きめの声を出す。小さな声では聞こえないからだ。しかし反応は無い。今ので聞こえなかったのでしょうか,と考え,もう一度,今度は腹の底から声を出すように叫ぼうとした。その時だった。
「誰だ?」
ゲートの右側の扉。そこに小さな穴が開き,そこから兵士が顔を覗かせている。彼女は気を取り直して用件を言った。
「夜分に申し訳ございません。中に入れてくれませんか?」
「旅人か?」
「はい」
「ちょっと待ってろ」
そう言ってゲートの管理人?は消える。しばらくしてゲートが重い音を立てて開いた。先ほどの男が出てこないのでこれは入れということだと彼女は考えた。スバルとじごくのハサミは仲良く中へと入る。そうすると背後でゲートが閉まる音が聞こえた。基本的に閉めていなければならないのだろう。
「ここがイシスですか」
既に夜であるにも関わらず,ゲート周辺には沢山の人間がせわしなく動いていた。ゲート周辺には投石器と見られる兵器が並べられ,ここからは見えないが塀の上には矢が沢山置かれているに違いない。少し離れたところが宿舎となっているのだろうか,そこから多数の人間が出入りしているのがわかる。そういう建物がここから見えるだけでも4つはあった。
「お嬢ちゃん,こんな夜に到着とは,危険な旅をしたね。というかここが戦場になることくらい知ってるだろ? 何で来たんだ?」
先ほどの兵士が,気さくに声をかけてきた。彼女は兵士を見る。
「急ぎだったもので。私の知人がこちらへ来たと聞いたので」
それは本当だ。というより今この時に嘘を言わねばならない必要など無い。
「へぇ。それってもしかして大分前に到着した男のことか?」
スバルの目が細く狭まる。そうして兵士を注視した。
「……どんな方でしたか?」
「ん? そうだな,髪はブラウンで後ろの髪を縛ってた。剣を持っていた感じはなかったから武道家か? 後は……」
「いえ,それで十分です。ありがとうございます」
「そうか?」
「ええ。それともう一つ。その方はどこに行ったか判りますか?」
彼女の質問に男は首を振る。
「いや,流石にそこまでは聞いてないが,今はモンスター襲来に備えて厳戒態勢だからな。どんな人間も城に避難してるだろうよ」
「なるほど。ありがとうございます」
「いいや。お嬢ちゃんも探し人が見つかると良いな」
「ええ。それでは」
「記憶が……無い?」
明らかに動揺するクルスに対し,比較的平気な顔で答えるオルハ。
「そう。私,昔に怪我したらしくってね。頭を強く打って,それで記憶が無くなったのよ」
あはは,と頭をかきながら,破顔するオルハ。記憶がなくなっているのに随分とまぁ陽気なものだ。
「それで,アンタは誰なんだい? 昔の私の知り合いなの? それならごめんなさい,覚えてないわ」
「い,いや……」クルスは瞬時に考え,そして答える「俺の名はクルス。クルス・ボラグウェルだ。呼び捨てで構わねぇよ」
「クルス……か。良い名前ね」彼女は微笑む「でも,ごめんなさい。やっぱり記憶が無いみたい」
「そりゃそうだ。どうやら俺は勘違いしてたみたいだからな」何を言い出す,クルス。「あんたに良く似た人と完全に見間違えた。どうやら俺の目は大して良くないらしい」
狂った発言をするな,とクルスは自身で強く言う,が。彼は止まらない。どう考えても目の前の女性が捜し求めていた人だ。それなのに,彼女は自分のことを覚えていない。それならば,彼女に余計な負担をかけないように自らを偽れば良い。
「あら,そうなの?」
まぁ人違いなんてよくある話だしねぇ,と彼女は笑った。
(記憶が無いことに関しては,まるで悲観的じゃねぇんだな)
なるほど,昔の性格が色濃く残っている。悲観的なんて言葉はオルハには最も相応しくない言葉だ。常にポジティブ。その前向きな性格が彼を変えたのだから。
「それで,こんな夜に何をしてるの?」
「いや。ただ眠れないだけさ。もうすぐここも戦場になるからな。安心して眠れやしねぇ」
「……なるほどね」
オルハは納得したように頷く。そういえばクルスは彼女の姿を見ていなかった。あらゆる視点が彼女の表情に行っていたからだ。
彼女はその表情に似合わず鎧に身を包んでいた。動きやすいピンク色の鉄の鎧,下に吸汗性の良いスパッツとTシャツを着ている。腰には剣が下げられていて,どう見てもこれは戦士の格好だ。それも,イシスに属する兵士か。
「アンタ,いや,オルハさんはイシスの兵士なのか?」
「あはは,私も呼び捨てで良いよ」彼女は一度そこで話を切る「そうさ。それを聞くってことはクルスは旅人だね」
オルハがしている格好はイシスの正規兵の格好。イシスに住んでいる者なら誰でも知っていることだ。だからオルハは旅人なのだろうと推測したのである。
「ああ,昔はここに住んでいたことがあったが,残念ながら昔の正規兵の格好と随分変わったみたいだな」
「まぁね。この格好もつい最近になってからだし。って言ってもこれは女性用だからあんまり知られてない可能性もあるけど」
「はは,女性の戦士なんて珍しいからな……それでも他国に比べれば女性兵士が多いほうだろ?」
戦士は重い武具を装備する。よって力が少ない女性がなることは稀である。それならまだ武道家の方がマシと言うものだ。しかし,ここイシスは女王国家。王ではなく女王が治めているのである。即ち女性の発言力が強く,そのために女性も多くが兵士の仕事をしていたりする。
オルハは昔武術を学んでいた(というかクルスも同じくそこで武術を学んだ)し,基礎体力があれば後は剣術の練習すれば戦士になることなどたやすいだろう。
「おーい,オルハ? ここに居るのかい?」
丁度その時だった。クルス,オルハ以外の声がこのバルコニーに入ってきたのは。二人共その声に反応する。
「ん? ああ,ヴォルガか。おーい,こっちだよ」
彼女がその声の主を呼ぶ。そうするとその男も気が付いたようでバルコニーに入ってきて,まもなく自分達を視認した。
「こら,オルハ。見回りをサボるとはどういうことだい?」
「そりゃあ心外だね。私はちょっと休憩してたのよ」
「ほぉ〜ま,良いけど。それでこちらの方は?」
ヴォルガがクルスの方を見る。クルスは少しだけ頭を下げて挨拶をした。彼もそれで返す。
「ああ,こちらはクルスだよ。私がここに来た時既に先着で居た人」
「そうなのかい? こんばんは,クルスさん」
「ん,ああ。こんばんは」
非常に奇妙な気分だった。この男はオルハにとってどういう人物なのか極めて興味があった。むしろそれだけしか考えられず,適当な返事しか出来ない。
「同僚か?」
クルスは聞く。
「え? まぁ同僚っちゃあ同僚だけど。どっちかって言うと私の夫だね」
「夫と思うならもっと優しくしても良いと思うけどな」
「何言ってるのよ,アンタは」
とヴォルガを小突くオルハ。その二人をクルスは停止したまま見た。
「っと,本気でそろそろ戻らないと駄目だね」
「そうだよ。俺はオルハを呼びに来たんだから。他のメンバーが待ってるよ」
「ああ,そうなのかい。んじゃ,クルス。そろそろお別れだね」
「ん,ああ……」
生返事しか返せないクルス。
「それじゃあね」
と言ってオルハは踵を返す。ヴォルガは自分に頭を小さく下げてそして彼女の後を追った。
残されたのはクルスのみである。
「……やれやれだな」
改めてクルスはタバコを吸おうと,ケースを取り出す。しかし傾けても出てこない。中身を覗いてみると既に空になっていることに気が付いた。
自分の荷物の中に買い置きがあるはずだが,取り出すのも面倒くさい。彼は舌打ちをして,壁にもたれかかって座った。
(まぁ,そういう可能性だってあるわな)
彼女は何も覚えていなかった。というより記憶自体を失っていた。自分の名前をわずかでも覚えていない。
彼女の両親はどうしたのだろうか? クルスはオルハの両親とも仲が良かったのでその両親が彼のことを教えなかったのだろうか? それとも既に教えられない状態だったのか? 自分とオルハの写真,即ち自分が10年間持ち続けた写真は彼女は持っていないのだろうか? いやそれよりも――
「あいつ。もう結婚してたんだな」
なるほど自分の記憶が無いならばそりゃあ連絡も無くて当然だ。既に彼女も自分と同じ25歳。結婚していて当然の年齢だ。この分だと子供が生まれるのもそう遠い話ではないだろう。
(全く,スバルの言葉が痛いな)
今更ながらアッサラームでスバルに説教された自分を思い出す。自分は女心がわかっていない,世の中の女性は誰も自分を見てくれなくなるぞ,と。正にその通りである。
(あんとき,ちゃんと言っておけば……)
自分がイシスを離れる時,その時自分が彼女に告白すれば良かった。自分についてきてくれないかと,それは難しいが言えば良かった。結婚年齢にはまだ至らなかったが,オルハと結婚したいと彼女の両親に言えば良かった。大丈夫だろう,と思い続けていたら,気が付けば既に彼女は他の男と結婚しているではないか。
後悔しても遅すぎる。何もかもが既に終わっているのだ。
「あーあ,ったく」
会いたい,守りたい,という気持ちからイシスへとやってきたのだが,急に冷めてくる。彼女が既に自分とはなんら関わり合いの無い状態になっているとなれば,情熱が無くなるのは必然だ。
「何しに来たんだろうな」
彼の中ではそれこそ彼女の窮地から救うためにここに来たと言うのに,必要とされていないのだ。これならシリウスに付いていったままの方が何倍も良かった。
「例えばあいつの記憶が戻ったら?」
自分のことを思い出したらどうなるだろうか?
(いやいやいや,それは宜しくねぇな)
既に彼女には不必要な記憶だそれは。もうオルハには相手が居るのだ。その間に入るのは彼には出来ないことだ。たとえ今でも彼女のことを想っていてもだ。
(自分の最優先事項は)
何であるかを思い出す。何を一番優先すべきなのかを。迷ったとき,困ったとき,自分がこれからどうすれば良いのか判らなくなったときは最優先事項を思い出すのが一番手っ取り早く指針を取り戻す手段だ。
「彼女を幸せにすることだったな」
クルスは,オルハに強い感謝を抱いている。大恩がある。それは返しきれるものではないが,可能な限り返さねばならない。そこに自分の感情は必要だろうか? 彼女を幸せにする,というのが最優先ならば,そこに自分の幸せなど入っていない。自分の意思とは無関係に彼女に幸せになってもらわねば困る。
彼女の幸せとはなんだろうか? それは聞かねばならないが,流石に彼女に自分の記憶が無い以上,問うのは馬鹿だと見られる。なら考える。
彼女の幸せは何か? 簡単だ。 今ある家族を大切にすることだ。命を守ることだ。つまりそれは,目下これからやってくるモンスターの大群から自分達を守ることだ。
「OK,指針が立った」
自分の想い人オルハは既に自分を覚えていない。関係なく,自分は彼女を幸福を守る。現状維持。周りなど関係あるか。そうするために自分は自分の気持ちを完全に封鎖しよう。
そうと決まれば。
「今日はもう寝るか」
ここは冷える。だが,クルスにはここを動くということが酷く億劫になり,そのまま座ったまま眠った。脳の休息。それが彼には必要だったのである。
33 に続く
あとがき
はい,どうも星立です。
クルス君の相手オルハの扱いをどうしようかと迷いまくりました。死んだことにするか,普通に会うか。どちらにしようか考えて,こうなりました。生きてはいる,が記憶が無いのは死んだも同然みたいな感じ。とはいえ記憶がないことを不幸と感じる子ではなかったりするので問題はクルス君の気持ち次第。
それでは次回 33 でお会いしましょう,ではでは〜